北回帰線に交わる
一九九〇年五月
(1)
台湾中正国際空港のターミナルビルから外へ出ると噎せ返るような空気に包まれた。
急いでタクシーに乗り込み宿泊先のホテル名を書いたメモを黙って手渡すと運転手も黙ったまま車を発進させターミナルビルの周回道路を勢いよく回り高速道路の入り口に差し掛かかったところで初めて口を開いた。
台北へはお仕事ですか」
流暢な日本語だった。
「そうです、会社は高雄ですけどね」
「今日の暑さは特別ですよ」
「高雄はもっと暑いでしょうね」
「いや高雄はこんなに蒸し蒸ししませんからむしろ台北よりも過ごし易いと思います」
「そうなんですか」
「私は高雄の左営という元日本海軍の基地があった街の生まれですが夏場でも夜の海風がとても爽やかなところです」
日本海軍ですか・・」
日本海軍と言えば山本五十六ですよね」
いきなり日本の軍人が登場したのには正直驚いた。
「私は子供の頃に左営の海軍基地で将校付きの雑用係として働いていました、その時仕えた人は日本の総理大臣だった中見根さんですよ」
運転手の得意げな顔がバックミラー越しに見えた。
「それはすごい話ですね」
「私もテレビで観た時はびっくりしました、いつも山本五十六の話をされ、これからは軍艦ではなく戦闘機を増強すべきだと主張されていたそうで中尉も同じ考えだと言っておられました」
「確かにその通りだったかも知れませんね」
浅い知識でそう答えた。
李登輝がテレビで“台湾人が一番に尊敬しなければいけない日本人は八田與一ではないか”と言っていましたが私は山本五十六ですね」
「台湾の人が日本の軍人を尊敬するというのは拙くないでしょ」
「全く問題無いですよ」
出張前に先輩から台湾で戦前の話は余りしない方がいいと助言されていた。
運転手は戦前の話どころか日本の軍人を尊敬していると言った。
百聞は一見に如かずとは正にこういうことだろうと思いながら戦前の思い出話を暫く聞いてから気になった事を質問した。
八田與一ってどういう人ですか」
「彼は大きなダムを造って荒れ果てた土地を農地に変えた人です、台中の南に嘉義という街が在りますがそこから山側に入った処に・・・すいません、もうすぐホテルに着きますから」
と途中で話が切られた。
(2)
橘隆志は労働組合の委員長を三月末で退任し年度が改まったゴールデンウイークは久しぶりに実家がある名古屋に帰省し休み明け初日に会社に出ると突然人事担当役員から台湾出張を命ぜられた。
台北で台湾駐在の山崎部長と合流し彼に従って行動してくれという指示で、直属の上司である購買部長に聞くと仔細は聞いておらず“委員長を無事に終えた慰労じゃないか”と個人的見解を示された。
目的も分からないまま台北のホテルで山崎部長と合流した。
「空港まで迎えに行けなくて悪かったけどお腹は空いてないかい」
「いえ、大丈夫です」
取り敢えずチェックインを済ませ軽くホテル内のバーで飲むことになった。
「今回の出張目的は何なの」
「山崎さんに従えと言われただけですから何も分かりません」
「僕も本社の人事部から取引先を二、三社回って高雄へ戻ってくれればいいと言われただけだから、とりあえず台北で一社と台南で一社選んでアポだけは取っておいたけどね」
「ありがとうございます、いずれにしても宜しくお願いします」
「まあ、気楽にいこうじゃないか、三年間も委員長を務めて大変だったろうから」
「今年の春闘は特に酷かったです」
「台湾でも人件費が高騰して年々厳しくなっているからしかたがないさ」
「そう言ってもらえれば救われます」
答えながらやっぱりこの出張は組合の委員長を務めた慰労なのだろうかと思った。
翌日、山崎部長が立てた計画通り台北の取引先を訪問しそのまま台南に移動して台南金属という会社を訪れた。
社名が示す通り金属加工品を台湾三島精機へ納めている取引先で会長の劉氏は納入業者の集まりである台湾三島会の役員も長く務めた人だと事前に山崎から説明があった。
息子の劉総経理の案内で一時間ほど工場内を見学して再び応接室に戻ると劉会長が待っていた。
「工場は如何でしたか」
我々日本人と区別がつかないほどの流暢な日本語だと思いながら工場の感想を述べ気付いた事を質問すると、答えようとする息子を制して劉会長が中国大陸への工場シフトを考えているので台湾での設備投資は極力控えているところだと説明した。
昨年、北京で起こった天安門事件を契機に日本のテレビでは評論家達が盛んに中国リスクを強調するばかりで劉会長の見解とはまるで違っていた。
「中国は民主化できますか」
民主化はあの事件でも分かるように当面は無理だと思います、ただ経済発展を進めないとあれだけの人口を養ってはいけないので改革解放路線は続くと思います、経済発展こそが彼らの最大の課題ですから民主化は犠牲になってもかまわないという考えでしょうね」
隆志と山崎はしきりに感心しながら頷いた。
「台湾は日本統治時代にインフラ整備や農地整備に大きな投資をしてくれたお蔭で徐々に経済も発展しいよいよ民主的な国になろうとしています・そうそう農地整備と言えば八田與一という人をご存知ですか」
山崎が知らないと答えると隆志は空港から台北市内へ向かうタクシーの運転手から名前を聞いたが詳細は知らないと答えた。
「運転手からお聞きになりましたか・最近李登輝が演説で取り上げ改めて脚光を浴びていますからね、彼はここから数十キロ内陸に入った処に大きなダムを造り辺り一帯に灌漑用水を巡らせて、それまで荒廃していた土地を台湾有数の穀倉地帯に変えた恩人です」
劉会長は一通り説明を終えると急に話題を変えた。
「ところで最初にお目に掛かった時から気になっていたのですが橘さんの出身はどちらですか」
「名古屋ですが」
「ひょっとしてお父さんは福沢電機の総経理を務められた方ではないですか」
「はい、そうです」
「やはりそうでしたか、お父さんによく似ていらっしゃるのでそうじゃないかと、貴方のお父さんは大きな工場を一から立ち上げられたし我々取引先も随分お世話になりました、台南金属がここまで成長出来たのもお父さんのお蔭です・お元気でお過ごしですか」
「はい、現役は退きましたが元気にしています」
「そうでしたか、それは良かった、機会があれば是非遊びに来て下さいとお伝え下さい」「ありがとうございます」
「山崎さんもせっかく高雄に駐在されているから一度ダムを見に行かれるといいですよ、烏山頭ダムと言ってここから車で一時間余りですから」
「お話を聞いて興味が湧きましたので是非行ってみようと思っています」

全ての予定を終え台湾三島精機が在る高雄に入り翌々日には日本に帰国した。