(3)
台湾から帰国した翌朝、いつも通り始業前に四階の喫煙ルームへ向かった。
「よお!出張お疲れさま、台湾はどうだった」
「いろいろ勉強になりました、特に台湾の人が日本の統治時代を懐かしそうに話すのには正直驚きました」
「年配者に多いとは聞くけど・・それより工場はどうだった何か変わったことはなかった」
「特に変わったことは無かったと思いますが」
「実は営業部内で台湾の総経理が代るという噂が広まっていてね、現地でも噂になっていないかと思ってね」
「そんな話は一切ありませんでしたけど」
人事に関する噂は殆ど数日間ではっきりするがこの噂は1ケ月近く経って現実になった。
隆志がいつも通り机で事務処理をしていると上司である購買部長が近寄って来てこれから専務の所へ一緒に行こうと告げた。
七階の役員専用フロアーに上がると委員長時代に親しくなった美人の秘書が笑顔で迎えそのまま専務室へ案内されると既に経理課長の山重守がソファーの端に座っており“まあ、座ってくれ”と迎えた岡田専務が山重課長の隣を指さした。
「早速だが君達二人に台湾へ赴任してもらう事になった、来月にはアメリカの玉木君が総経理として一足先に赴任するので君達も出来るだけ早く準備してもらいたい」
突然の話に暫くの静寂があって
「この時期に三人同時に異動するのは何か特別な意味が有るのでしょうか」と山重が質問した。
「玉木君は一旦日本に帰国してそのまま台湾へ赴任する事になっているので、その時に安田社長から直接話しをすると仰っている」
専務は意味深な答えをして私からは以上だとそのまま自分の席に戻った。
(4)
赤坂の料亭「三浦」の奥座敷に安田社長、岡田専務、経営企画室長の山本取締役と台湾へ赴任する三人が顔を揃えた。
「再来年三月末までに台湾から撤退する事になったので君達にその任に当たってもらう為に赴任してもらうことになった、詳細は玉木君に話してあるので簡単に説明すると、再来年の七月で台湾工場は創立二十年を迎え継続するとなると台湾政府との土地借款契約の更新をしなければならない、台湾の賃金上昇やその他もろもろの事情を検討した結果このタイミングで撤退すると決定した、撤退する訳だから現地社員は全員解雇しなければならないので難しい仕事になるが宜しく頼む」
隆志は三島精機に入社して十年目を迎え肩書は主任であり組合の委員長を務めて経営陣との面識が出来、時々会話も交わすようになったとは言え、こんな重要な仕事に管理職でも無い自分が選ばれたのか全く分からなかった。
「役員以外にこの件を知っているのは君達三人だけだからそのつもりで、勿論向こうに駐在している者にも知らせていない」
「・・・」
「橘君の件ですが前にもお話ししたように、彼の向こうでのタイトルは私にお任せ頂けますね」
暫くの沈黙の後、玉木が妙な事を言った。
「現地の事は全て君に任せる、ただ本社の人事規定とは別だからそのつもりで」
「分かっています、ではこの件は一任頂くとして具体的な話ですが、今回のプロジェクトの為に会社はどのぐらいの費用を想定されていますか」
「それは退職金など全て含めて最大十億円と考えています」
経営企画室長の山本が社長に変わって答えた。
「それではもう一つお尋ねします、この資料を見ますと再来年一月まで生産を継続する計画になっていますが、三月末撤退と言うのに一月まで生産が可能とお考えですか」
「それは、マレーシア工場の進捗を考えると最悪一月まで生産を続けなければならない可能性が高いと言うことです、そうならないようにマレーシアを煽っていますが、政府の認可に絡む問題なのでどうしようも無いところです」と山本が引き続き答えた。
「バカな!そんないい加減な事で会社を閉めるなどと言わないでもらいたい、経営企画室として妙案が有れば是非お聞かせ願いたい」
玉木の語気に気押されたように山本は安田社長に視線を投げた。
「玉木君の言う通り全員解雇となれば従業員は動揺するだろうし労働争議も覚悟しなければならない、ただ受け皿となるマレーシア工場の進捗が思うように進んでいないのも事実だから、ここは余り熱くならないで、君達が現地で状況を見てから解決策を考えようじゃないか」
「熱くなっている訳ではありません、お受けする以上は責任を持って進めたいので申し上げているだけです、これは大変重要なポイントですから再考頂く事になると思いますがそれで宜しいですね」
「判った!ただ三月は絶対に譲れないからそのつもりで」
「分かりました」
玉木は懸念される事項を関係者が揃った席で一つ一つ確認し安田社長の言質を取った。
隆志は話の進め方が見事だと感心しながら聞いていた。
(5)
台湾へ旅立つ二日前、隆志は名古屋の実家に戻り台湾赴任の報告をした。
夜は父の誘いで繁華街へ繰り出し久し振りに親子で酒を酌み交わすことになった。
「先ずは、隆志の台湾赴任を祝って乾杯だ」
「ありがとう」
「もう準備は済んだのか」
「終わったよ、後は出発するだけさ」
「それにしても親子二代で同じ高雄に駐在するとは不思議な縁だな」
「そうそう、五月に出張した時に台南金属の劉会長に会ったよ」
「懐かしい名前だな、隆志の会社も付き合いがあるのか・・劉さんは元気だったか」
「ああ、総経理は息子さんに代わっていたけど元気だったよ」
「高雄の時はいろいろ大変だったが今思えばいい経験をさせて貰ったよ、毎日が驚きとトラブルの連続で、国が違えば習慣も考え方もまるで違うのは当たり前と思いつつも、とにかく驚かされる事ばかりだった、お前たちを日本に残して台湾へ行って申し訳無いと思ったが後悔した事は一度も無いよ、俺は俺で遣り甲斐があったしお前達もお母さんのお蔭で素直に育ってくれたからね」
「親父はいいよ、新しい工場を立ち上げるのは苦労も多いだろうけど夢が有るから、それに比べて俺はその逆をやらなければならない訳だからね」
「たしかに時代は変わったな、高度成長期は混沌としていたが全てが確実に上昇しているという実感が有った」
現役を引退した親父は台湾時代の苦労話や楽しかった思い出をどうどうめぐりさせながら想い出に耽り始めた。
隆志は引き時だと見て強引にお開きを宣言し店を出てタクシーを拾った。
後部座席に乗り込むと親父は直ぐに寝息を立て頬に薄っすらと涙を浮かべながら夢の中を彷徨しているようであった。